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BOUNDHEAD

world's end girlfriendから始まったchouchou
前回のchouchou関連記事の続きです。

前回、「最果て」という言葉にこだわって書いた箇所がありましたが、その後、ネットでインタビュー記事を読んで、「あ、つながってんじゃん、おもしろいな」と感じたことがあったので、追加記事上げときます。私が読んだのは以下の記事。

chouchou インタビュー

注目箇所は以下。

それで初めてutakataを作ってジュリエットに歌ってもらったら結構二人とも気に入って「これはいいよね、これは今までにない感じで独特なジャンルになりそうだよね」ってなって。それですぐに2曲目、当時僕がやりたくてやれなかったアレンジなんかを「だって別に良ければいいじゃん、誰にも文句は言わせないぜ」って感じで自由に作ったのがsignでしたね。(引用終わり)

ということでまずは記念すべき初コラボ作品の「utakata」
(2019年のアルバム「Farewell,Astronauts」のアルバム名を連想させる「astronautsっていう歌詞がすでに出てるね。)


「今までにない感じで独特なジャンルになりそうだ」というアラベスク氏の感想はまさにその通りだった。で、つぎの共作がINSOMNIA所収のsign(「NARCOLEPSYには「sign 0」と「0」が加わった別バージョンが入っている。)

INSOMNIAもNARCOLEPSYも2009年に出たアルバムで、これは「ずっと覚醒し続けている状態」VS「たえず眠り込もうとしてしまう状態」というように対立する症状を英語でアルバムタイトルにしたということだ。このことに気が付いた時、私はシュタイナーの『悪の秘儀』内の記述を思い出した。

ルドルフ・シュタイナーの『悪の秘儀』にはこういう文章が出てくる。

精神という観点から観察してみると、私たちは目覚めているとき、硬化する方向へと向かう力を備えています。目覚めているとき、私たちは自分の肉体をしっかりと捉え、手足を使用します。そして私たちは眠りにつくときに、肉体の中にある、軟化させたり、若返らせたりする力を働かせます。すると、私たちは夢の中へと沈んでいきます。このとき私たちは、もはや自分の肉体を意のままに支配することはできません。つまり私たちは、「人間というものは本来、あまりにも軟化しすぎるか、あまりにも硬化しすぎるか、どちらかの状態に落ち込む危険に絶えず曝されている」と言うことができるのです。(P23)

で、そのあと「だからフォースにバランスをもたらす必要がある」という趣旨で話はつづく。




この歌の歌詞に「例えば今世界が終わり私の名がかき消されたら探して」って箇所がある。
これってまさに「world's end girlfriendのつぶやき」つまり「世の終わりにいる(誰かの)恋人=彼女のつぶやき」じゃん。world's endは「世界の終わり」とも「最果て」とも訳せると前回の記事で書いた。そしてworld's end girlfriendというミュージシャンが日本に実在して(一番好きなアルバムは「LAST WALTZ」)、自分は「最果ての彼女」と勝手に訳して受け止めていた、という趣旨のことも書いた。

そしてアルバム「Farewell, Astronauts」でまた「world's end lullaby」という題名の曲に出会う。
で、最新作が「最果のダリア」(world's end dahlia)だ。

実に面白いと思う。彼らが影響を受けた先行のミュージシャンとして「at eden」や「sputnik」という曲を書いた新居昭乃の名前は出ていなかったけど、まったく関連性がなかったとしたら、それはそれで興味深い事実。

さらにインタビューを読んで驚愕したのが、ボーカルのジュリエットが「ドイツ語のように聴こえるけど、comaは、日本語アナグラムの架空の言葉だ」と言った箇所。えー、じゃあ、彼女は菅野よう子&新居昭乃コラボ曲の「wanna be an angel」同様、「人工言語(つまり天使語?)で歌ちゃったの」とますます興奮した。アナグラムということは「日本語解読できる」ということだろうけど、私は、まだ解読版歌詞にはネット上では出会っていない。



ジュリエットの歌唱法は基本ささやきボイス系だと思うけど、曲によって歌い方を変えてるところが面白いよね。声優的というか。ALEXANDRITEのCatastropheとかは高校生の女の子が歌っている感じ。



いろいろなアルバムを聴きながら、一番大きい連想はやっぱ新居昭乃とのものなんだけど、なぜだか声優の能登麻美子のささやきボイスも連想した。Catastropheの声と能登麻美子はつながるか? といえばNOだな。なのにchouchouが出している多数の楽曲全体を通して聴いていると、なんでかそう感じたのだった。声に関して、chouchou→新居昭乃、新居昭乃→能登麻美子(「きれいな感情」とかかな?)の2通りの連結がchouchou→能登麻美子と連結したんだろうな。 

能登麻美子はあまり歌を歌っていないようだ。CD類はあるけど、ドラマCDがほとんど。YouTubeでこういうのを見つけてきた。サムネイルはあの有名な、彼女が主演した「地獄少女」。



「うーん、新居昭乃と接続までは分かるけど、なんで能登麻美子なのかわかんねえ」というのがやっぱ読者の感想なんだろうなあ。まあ、「曲を聴いている最中に喚起される印象」のなかにそういう連想感覚も起きたということなので、そういう連想感覚は人によってもちろんちがうだろうから、この辺の感覚は、突っ込まずにもうほっといてほしい。

P.S. 能登麻美子「連想感覚」に関してその後、「あ、これが〈体験の海〉の中から一番プッシュしてきてたんだな」と思ったのだった。きっとそうだ。以下lovers & cigarettes





chouchouは教会音楽系もやっている。「アベ・マリア」については大昔、スラヴァのアルバム関連で当ブログでも取り上げたことがあったね。chouchouの「アベ・マリア」もなかなかいいよ。でも、私が「どはまりした」のは「 O come O come  Emmanuel」だった。エマヌエルというのはイエス・キリストのことだ。まずは一般的な音源で聴いてみたい。



これだと、たんたんと最後まで聴けるよね。ところが、chouchouバージョンはアレンジに仕掛けがしてあるので、曲の後半で「思わず高まってしまう」ことを避けることができない。実際、ある時期私はこの曲ばかりリピート再生して、「高まって」いたのだった。3:16からがやばい。この箇所があったので、何度もリピート再生する(いわゆるオーバードーズ状態?)はめになってしまったのだった。




ということで、映画やドラマやアニメや音楽や絵画やらコミックやら、なにかしら創作をやっている人々はインスピレーション(やってくるもの)を無意識に地上に可視化可聴化する仕事をしている人々なので、そういうものに定期的に触れる生活は維持していきたいものだ。「若者だから老人だから」に関係なくね。











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