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最近聴いている音楽は、あいかわらずシュシュだったりはするんですが、今日は特にcomaをヘビーローテーションで聴いてました。なんか瞑想的な気分になるんですよ。以前紹介したアルバムを全部流しながら寝てしまうとか、今でもよくしてますねえ。
瞑想的と言えば、これはもうだいぶ前からYouTubeで出会って、「気になる人入り」しているミュージシャンがいて、その人が表題のウィリアム・バシンスキです。
ミニマリズムというんですか、同じフレーズをずっと繰り返すアレです。
「ミニマリズム」でウィキペディア検索したら、ミニマル・ミュージックという言葉もあるようですけど、なんかこれだとポップ感全面押しな感じで違和感あります。
でもスティーブ・ライヒとかそういうタタタタが連続するような音列構成によるミニマリズムじゃないんですよ、私が気に入ってるウィリアム・バシンスキの曲って。
タタタ系って、ずっと聴いてると脱魂化しそうです。アコースティック・ギターだと、ウィリアム・アッカーマンの「synopsis」って曲がありましたけど、これも好きでしたねえ。大昔、この曲をリピート再生して聴いてました。ウィリアム・アッカーマンって普段はこんな曲あんまり作品として出さない叙情派っぽい人なんですけどねえ。
William Ackerman Synopsis([PAST LIGHT」所収)
このblogページ上では動画が見られない形式になっているようなので、画面内の「watch on YouTube」リンクをクリックして聴いてください。
ということで、ウィリアム・バシンスキの場合は、むしろアンビエント系ということで紹介したほうがよいのかもしれません。
ということでまずはこれが私が最初にYouTubeで出会った曲です。
William Basinski Watermusic Ⅱ
もうひとつ水に関する曲
William Basinski cascade
カスケードって辞書的には「滝」って出てきますが、イメージ的には垂直落下系のやつじゃなくて、傾斜の緩いタイプの、階段状になったタイプのやつだそうです。
YouTubeにはほかにもたくさん動画が上がってますが、今回上げた二つは重苦しいという印象はないですけど、ほかの作品はかなり重苦しいのばっかりです。でもそれはそれでいいですよ。
William Basinski - The Disintegration Loops (full album)
5時間53分38秒という非常識な長さのアルバムだというのがびっくりです。最初に登場してくる曲は、ずっと聴いているとそのうちに繰り返しがだんだん崩壊(Disintegration)していきます。アップロード(あるいはダウンロード)ミスじゃなくて意図的に故障的な音像を作っているようです。そこまで聴き続ける根気のある人はトライしてみてください。
ウィリアム・バシンスキは、日本のリスナーには一般になじみがない人物だと思われますが、「日本の普通の音楽」では歯ごたえがないと感じる向きにはおすすめです。米国人がYouTubeのおかげで日本の80年代の音楽に遭遇してハマったように、日本人もまたいろいろと「日本にない音楽に遭遇できる」ようになったことはありがいたいですね。
ライブ風景の動画もあったので最後に置いときます。
アルバムのデザインとかライブでバックで流している映像を見ると、滝というより「さざ波」っていう印象を受けますね。辞書検索してみるといろいろ書いてありました。これによると、どうやら「次々と継起するもの」ってのがcascadeって言葉が本来内包しているイメージなんでしょうね。PR -
前回のchouchou関連記事の続きです。
前回、「最果て」という言葉にこだわって書いた箇所がありましたが、その後、ネットでインタビュー記事を読んで、「あ、つながってんじゃん、おもしろいな」と感じたことがあったので、追加記事上げときます。私が読んだのは以下の記事。
chouchou インタビュー
注目箇所は以下。
それで初めてutakataを作ってジュリエットに歌ってもらったら結構二人とも気に入って「これはいいよね、これは今までにない感じで独特なジャンルになりそうだよね」ってなって。それですぐに2曲目、当時僕がやりたくてやれなかったアレンジなんかを「だって別に良ければいいじゃん、誰にも文句は言わせないぜ」って感じで自由に作ったのがsignでしたね。(引用終わり)
ということでまずは記念すべき初コラボ作品の「utakata」
(2019年のアルバム「Farewell,Astronauts」のアルバム名を連想させる「astronautsっていう歌詞がすでに出てるね。)
「今までにない感じで独特なジャンルになりそうだ」というアラベスク氏の感想はまさにその通りだった。で、つぎの共作がINSOMNIA所収のsign(「NARCOLEPSYには「sign 0」と「0」が加わった別バージョンが入っている。)
INSOMNIAもNARCOLEPSYも2009年に出たアルバムで、これは「ずっと覚醒し続けている状態」VS「たえず眠り込もうとしてしまう状態」というように対立する症状を英語でアルバムタイトルにしたということだ。このことに気が付いた時、私はシュタイナーの『悪の秘儀』内の記述を思い出した。
ルドルフ・シュタイナーの『悪の秘儀』にはこういう文章が出てくる。
精神という観点から観察してみると、私たちは目覚めているとき、硬化する方向へと向かう力を備えています。目覚めているとき、私たちは自分の肉体をしっかりと捉え、手足を使用します。そして私たちは眠りにつくときに、肉体の中にある、軟化させたり、若返らせたりする力を働かせます。すると、私たちは夢の中へと沈んでいきます。このとき私たちは、もはや自分の肉体を意のままに支配することはできません。つまり私たちは、「人間というものは本来、あまりにも軟化しすぎるか、あまりにも硬化しすぎるか、どちらかの状態に落ち込む危険に絶えず曝されている」と言うことができるのです。(P23)
で、そのあと「だからフォースにバランスをもたらす必要がある」という趣旨で話はつづく。
この歌の歌詞に「例えば今世界が終わり私の名がかき消されたら探して」って箇所がある。
これってまさに「world's end girlfriendのつぶやき」つまり「世の終わりにいる(誰かの)恋人=彼女のつぶやき」じゃん。world's endは「世界の終わり」とも「最果て」とも訳せると前回の記事で書いた。そしてworld's end girlfriendというミュージシャンが日本に実在して(一番好きなアルバムは「LAST WALTZ」)、自分は「最果ての彼女」と勝手に訳して受け止めていた、という趣旨のことも書いた。
そしてアルバム「Farewell, Astronauts」でまた「world's end lullaby」という題名の曲に出会う。
で、最新作が「最果のダリア」(world's end dahlia)だ。
実に面白いと思う。彼らが影響を受けた先行のミュージシャンとして「at eden」や「sputnik」という曲を書いた新居昭乃の名前は出ていなかったけど、まったく関連性がなかったとしたら、それはそれで興味深い事実。
さらにインタビューを読んで驚愕したのが、ボーカルのジュリエットが「ドイツ語のように聴こえるけど、comaは、日本語アナグラムの架空の言葉だ」と言った箇所。えー、じゃあ、彼女は菅野よう子&新居昭乃コラボ曲の「wanna be an angel」同様、「人工言語(つまり天使語?)で歌ちゃったの」とますます興奮した。アナグラムということは「日本語解読できる」ということだろうけど、私は、まだ解読版歌詞にはネット上では出会っていない。
ジュリエットの歌唱法は基本ささやきボイス系だと思うけど、曲によって歌い方を変えてるところが面白いよね。声優的というか。ALEXANDRITEのCatastropheとかは高校生の女の子が歌っている感じ。
いろいろなアルバムを聴きながら、一番大きい連想はやっぱ新居昭乃とのものなんだけど、なぜだか声優の能登麻美子のささやきボイスも連想した。Catastropheの声と能登麻美子はつながるか? といえばNOだな。なのにchouchouが出している多数の楽曲全体を通して聴いていると、なんでかそう感じたのだった。声に関して、chouchou→新居昭乃、新居昭乃→能登麻美子(「きれいな感情」とかかな?)の2通りの連結がchouchou→能登麻美子と連結したんだろうな。
能登麻美子はあまり歌を歌っていないようだ。CD類はあるけど、ドラマCDがほとんど。YouTubeでこういうのを見つけてきた。サムネイルはあの有名な、彼女が主演した「地獄少女」。
「うーん、新居昭乃と接続までは分かるけど、なんで能登麻美子なのかわかんねえ」というのがやっぱ読者の感想なんだろうなあ。まあ、「曲を聴いている最中に喚起される印象」のなかにそういう連想感覚も起きたということなので、そういう連想感覚は人によってもちろんちがうだろうから、この辺の感覚は、突っ込まずにもうほっといてほしい。
P.S. 能登麻美子「連想感覚」に関してその後、「あ、これが〈体験の海〉の中から一番プッシュしてきてたんだな」と思ったのだった。きっとそうだ。以下lovers & cigarettes
chouchouは教会音楽系もやっている。「アベ・マリア」については大昔、スラヴァのアルバム関連で当ブログでも取り上げたことがあったね。chouchouの「アベ・マリア」もなかなかいいよ。でも、私が「どはまりした」のは「 O come O come Emmanuel」だった。エマヌエルというのはイエス・キリストのことだ。まずは一般的な音源で聴いてみたい。
これだと、たんたんと最後まで聴けるよね。ところが、chouchouバージョンはアレンジに仕掛けがしてあるので、曲の後半で「思わず高まってしまう」ことを避けることができない。実際、ある時期私はこの曲ばかりリピート再生して、「高まって」いたのだった。3:16からがやばい。この箇所があったので、何度もリピート再生する(いわゆるオーバードーズ状態?)はめになってしまったのだった。
ということで、映画やドラマやアニメや音楽や絵画やらコミックやら、なにかしら創作をやっている人々はインスピレーション(やってくるもの)を無意識に地上に可視化可聴化する仕事をしている人々なので、そういうものに定期的に触れる生活は維持していきたいものだ。「若者だから老人だから」に関係なくね。 -
2000年代以降、自分の中では、ついにJ-POPの位置づけがかつての歌謡曲VSニューミュージック(J-POP)からJ-POP VS something else に変わっていることに気が付く。
今の日本の音楽好きの一部は、90年代に全盛を極めたような「形式(モード)」の音楽に見向きもしなくなったんじゃないかと思う。つまり歌謡曲でもJ-POPでもないような音楽を「好んで聴く」ようになっているんじゃないかと思う。洋楽の受容においても、同じような状況だと思う。
でも、昭和の歌謡曲のオルタナティヴとして登場したのちにニューミュージックとよばれるような音楽は70年代にはまだ「一部の音楽好き」にしか関心を持たれていなかったはずだ。それまで円盤売り上げからいえば、この新カテゴリーの売り上げは微々たるものだったんじゃないかと思う。(昔大貫妙子がFMのスタジオライブでそんなことを言ってた記憶がある。5万枚売れたら大成功と認識されてた時代。)
そして80年代から歌謡曲をだんだんと駆逐していく時代が始まり、90年代に頂点に達した。そしてその後2000年以降は下りの坂道行程に突入し、音楽自体が「商品」として大衆の魅力を失う時代がやってきた。
ということで、日本の音楽環境を、なんか他人目線(=評論家目線)で一般化して書いている感じだけど、この感じは「自分の感覚そのもの」を評論めかして書いているだけで、要するに「今のメジャーレーベル系の音楽なんてもう飽きたんだよ」と言っているだけの話ではある。
自分の場合、ラジオで新譜を追っていたのは中高大時代の遠い昔、2000年前後の時期は、日本の音楽CDを買うことがまったくなくなっていた時期でもあったけど、ネットが登場し、深夜アニメが台頭し始めて、そのオープニング曲やエンディング曲を毎回聴かされる環境が登場してくると、新譜の知識はアニソンから、そしてネット上でインディーズサイトで無名のミュージシャンを探しているというような状況に陥ってしまった。挙句の果てにはアニメのサントラとインディーズ系CDの購入がメインになるという振る舞いをするようになった。
「ガサラキ」とか「ラーゼフォン」とかのサントラを買った。そういう当時のアニメに曲を提供しているアーティストのなかでもっとも自分のなかでヒットしたのが、新居昭乃だった。実は彼女は種ともこが歌う「ガサラキ」のエンディングテーマの作曲者だった。別のルート(別のアニメ作品の影響)で彼女のアルバムを聴くようになっていた私は、あとでその事実を知って、「あ、すでにオレは彼女の曲を聴いたことがあったんだ」と驚愕した。
坂本龍一や細野晴臣たちが民族音階やエレクトロ音楽、アンビエント音楽を始めたころは、真剣につきあってはこなかったが、その界隈の第二世代、第三世代が日本に登場するようになったころ、ネットのインディーズサイトでアンビエント・エレクトロニカ系の音楽を探して聴くようになり、その後Googleに買収された後のYouTubeでambient(アンビエント)系の音楽を検索して熱心に聴くようになった。
インディーズサイトで出会った忘れがたきアーティストといえば、昔ここでも紹介したことがあるマトリョーシカ(matryoshka)を一つ上げたい。(以下「Monotonous Purgatory」、自分流に訳せば「単調な煉獄」あるいは「単調な死後の世界」くらいのものだろうか。)
以下この曲が入ってるアルアムのURLLaideronnette(matryoshka)後年、「あれ、新居昭乃とマトリョーシカって、オレん中で、どこかつながってね?」と思っていた。
最近注目したバーバパパの動画は諧謔と恐怖の併存が特徴的だったけど、せっかくなので、今回の幽界系音楽とは、ちょっとズレてしまうけど、Monotonous Purgatory動画の仲間に入れておきたい動画を以下二つだけ紹介しておこう。(以下「endless summer vampillia」)
森田童子の「マザースカイ」の世界は幻想文学してると思うけど、こういうvampillia的な幻想的な動画と相性がいいと思うんだが。例えばアルバム所収の「伝書鳩」なんぞは、自分には空中に飛んで自殺をしようとする少年(もとの意図はまったくそういう話じゃないのだろうが)を想起させる恐ろしい歌に感じる。「a boy」所収の「ふるえているネ」のアゲハ蝶イメージとかも、もろ幻想性マックスだよね。
(以下「lilac vampllia 戸川純」)
新居昭乃については、昔「ブルガリアン・ボイス」関連でこのブログでも言及したことがあった。(以下、「wanna be an angel」(「天使になりたい」)
この曲はアニメ「マクロス・プラス」の劇中歌として書かれたものだ。曲名は英語なのに、歌詞は菅野よう子の作った人工言語で、地上に存在したことがない言語なのだからある意味菅野よう子のインスピレーションに降りた「天使語」と考えてもいいよね。歌を歌っているのが新居昭乃で、彼女自身すばらしい作曲家なんだが、この曲は作詞も作曲も菅野よう子がやっている。
YouTubeの「秘教学徒」では「人間天使シリーズ」を最後に天使論関連のアップロードをやめてるけど、あすこで語ったのは 「あなたがたは再び天使の位階に回帰できる」という希望の福音だからねえ。地球の管理天使という本来の「人間天使」の位階から地上に転がり落ちたが、「再び九位階の先輩天使たちの仲間に加わって天使となることができる」という話だからねえ。
Wanna be an angel?(天使になりたい、だって?)
もちろん、なれるよ、という回答が、まだ西洋の一般的なキリスト教徒たちには「意識化」できないでいるけれども、シュタイナーのキリスト論の中には含まれている、って話だった。
新居昭乃の曲は今でも時々聴いている。
アニソン系で「wanna be an angel」以外のオススメは、
アニメ「KURAU」(クラウ)のOPだった「懐かしい宇宙」
アニメ「東京アンダーグラウンド」のEDだった「覚醒都市」
アニメ「NOIR」(ノアール)のEDだった「きれいな感情」
などなど。あと大昔、YouTubeで銀魂のMAD(定春が巨大化するエピソードと曲をドッキング)で初めて聴いた記憶がある「ガレキの楽園」これもいいよね。(もはや見られなくなってるのが残念だ。)
さて、これまでYouTubeでいろいろとアンビエント系の曲を試しにポチって聴いてきた。その中でYAGYAの「sleepygirls」が気に入ったのだった。このアイスランド出身のアーティストのアルバムにおいて、日本人の女性歌手がボーカルで2曲参加しており、日本語の歌で「眠りの向こう側」という不思議な歌詞を歌っているのに出会って、その声と歌詞の不思議さに関心がわいたのだった。
彼女は名前を柳本奈都子といい、本来、rimaconaという二人組の音楽ユニットでボーカルを担当した人だった。どういう縁で録音に参加したのかはネットにも出てこない。ウィキペディアの日本語サイトにはyagyaの情報も載っていないので困った。「sleepygirls」の4曲目を聴いていたら「眠りの向こう側」という日本語が飛び出してきて驚き、しかも、どこかでなんか聞いたことがあるような歌詞だと思ったのだった。それはシュタイナーが語った「記憶の向こう側へ行く」(引用元「シュタイナーの死者の書」)という表現だったことを思い出した。「眠りの向こう側」ってどんな世界なんだろう?
それで、「ああ、やっぱオレはこういう覚醒と眠りの間をさまようような感覚にしてくれる曲も好きなんだな」ということを自覚するようになった。
だからchouchouに出会ったときも、雰囲気「マトリョーシカに似てね?」という反応ではなく、「やったー。こんなに大量にこの手の音楽浴ができるなんて、チョウチョウって最高じゃん」と思ってしまったのだった。ほんとはチョウチョウ(ローマ字読み)じゃなくてフランス語発音でシュシュ(日本では髪留めの呼び名だが、本来は「お気に入り」らしい)と読むということを後から検索で知ったのだった。(以下、「voyager」)
Farewell,Astronauts(chouchou)
紹介したアルバムは、比較的最近のものだが、ほかにも日本語や英語で歌われる曲が混在したアルバムをいくつか出している。日本語歌詞の場合、印象がJ-POP寄りになって聴こえる感じがする。
例えば、その代表例としてanemoneを聴いてみよう。
ALEXANDRITE(chouchou)
Farewell, Astronauts内での歌い声と印象が変わってしまう。でも名曲だよね。「エウレカセブン」の劇場映画に「ANEMONE」ってのがあって、chouchouのanemoneがエウレカセブンのアネモネに連結してしまった。
映画では坂本龍一の往年の名曲「Ballet Mécanique」(坂本龍一が担当日のNHKFM サウンドストリートのテーマだったよな)を、やくしまるえつこがカバーしていたけど、私は思わず、YouTubeに公開されている映画のトレイラー映像に坂本龍一バージョンではなくて、chouchouバージョンのanemoneを重ねて聴いてしまった。これはこれですごくいいじゃんと思ってしまった。(なので自宅で楽しむMAD動画みたいなものをAviUtlで作って遊ぼうかなとかも思っている)
自分が今のところ聴いたアルバムは以下。
INSOMNIA chouchou(2009)
NARCOLEPSY chouchou(2009)
VINCULUM chouchou(2010)
ALEXANDRITE chouchou(2015)
Night and Wanderer chouchou(2017)
Farewell,Astronauts chouchou(2019)
こういう幽界系の音楽も好んで聴けるという人にはお勧め。
P.S. 本記事投稿時の最新アルバムが去年の12月にでたばかりの「最果(さいはて)のダリア」
最果のダリア chouchou(2021)
「world's end」って言えば「世界の終わり」って訳語と「最果て」という訳語が出てくるけど、私のお気に入りで以前当ブログでちらっと言及したworld's end girlfriendのことを「世界の終末に直面している彼女」という意味では受け入れがたいと思ったので、自分では勝手に「最果ての彼女」と語呂がいい感じになるように訳していた。「最果てのパラディン」なんてアニメも最近見たし、「最果て=world's end」って言葉は、もしかして、ある界隈では関心語になってるのかな?
「最果のダリア」の前のアルバム「Farewell,Astronauts」の2曲目に「world's end lullaby」(最果の子守歌)ってのが入ってるから、そこをブリッジにして、今回のアルアムの題名に接続してるってことかな。
アニメ「ガンゲイル・オンライン」が好きで、さらには主人公レン(楠木ともり)が歌うED「to see the future」が好きで、「私の好きなアニソン・コーナー」(ずっとやってないけど)でいつか紹介したいと思っていたら、chouchouの「最果のダリア」所収の楽曲を楠木ともりに提供したという情報を得て、「いやあ、ほんといろいろつながっていくよなあ」としみじみとうれしく思ったところですよ。 -
最近、また「エルゴプラクシー」を見直して「やっぱいいなあ。ピノちゃんかわええなあ」と思った次第です。(以下、第12話「君微笑めば」の(カンカン修理GIF)
DVDバージョンで見直したんですが、以前ネット配信のものを見たとき、DVDではEDで使われていたレディオヘッドの曲が使われていなくて、無音の黒背景にクレジットが流れるバージョンになっていたので、少々がっかりした記憶があります。権利関係でレディオヘッド側と折り合いがつかなかった結果でしょうか。
とはいえ、自分が好きだったのはオープニングの「kiri」のほうなので、こっちはさすがに差し替えなんてできないと思うので、ちゃんと毎回聴けてよかったですよ。
このブログでも昔、エルゴプラクシーに言及したことがありました。そのときは、有名な絵画オフィーリアについて書いたのでした。(当ブログの検索欄で調べたら、2009年の記事でした。なんて大昔なんだ。)オフィーリアについては最近YouTubeで山田五郎氏の解説を見たばかりですよ。
アニメのオープニング「kiri」はMONORAL名義で出された邦楽曲だった、ということを、のちにウィキペディアで知りました。
MONORALというのは島田アニスと森泉アリの二人(二人ともハーフです)によるユニットで、ステージでは助っ人を入れてライブをやってきたようです。(島田アニスは、近頃中山美穂の不倫相手?という記事でスポットあびたことを今回記事を書くために検索するまで知りませんでした。「そういう人脈関係」は、どうでもいいし。)
どういう人脈で島田アニスにエルゴプラクシーのオープニングテーマ参加依頼が来たのか詳細は分かりませんが、物語のテーマに沿った歌詞とともにすばらしい名曲に仕上がっていると思います。
初めてこの曲を聞いて耳に入ってくる歌詞に「あれっ?」っと関心がわき、調べてみると、どうも、パウロの「私の内なるキリスト」という言葉で表されてきたものとの類縁性を感じて、「ああ、これって21世紀のゴスペルソングだな」と勝手に思い込んで、今日でもそういう「受け取り方」を個人的にはしています。
島田アニスがほんとうはどういうイメージでこの抽象的な歌詞を思いついたのかはさだかではないので、私の解釈は勝手な思い込みかもしれませんが。
まあ、それでも私同様に「kiri」が気に入って歌詞の内容にまで踏み込みたかったら、ネットで簡単に歌詞検索ができるので、自分なりに訳して味わってみるといいと思います。
ネット記事では「洋楽のような邦楽」なんて表現も目にしたけど、私は「初めから洋楽カテゴリー」として聞いてました。あとから日本国籍を持ったミュージシャンが日本で発売した楽曲だということを知って「So what?」と思いましたがね。
「kiri」が入っているのは「Turbulence」というアルバムですが、私が一番好きで聴いているのはフルアルバムとしてはファーストにあたる「Petrol」ですよ。なかでも「forozen peak」好きですねえ。
グランジ、オルタナティブなどなど用語上のロックカテゴリーの細分化には辟易しているリスナーも多いと思うけど、島田アニスの歌唱法は、そうはいってもそういう時代のものとやはりつながっているとは思います。
最初に連想したのはやはりパールジャムのエディー・ベイダーとか、あるいはストーン・テンプル・パイロッツのスコット・ウェイランドだった。なのに今では彼らの歌声より、私は島田アニスの歌声の方がより好みになった。
お気に入りで例にあげた「frozen peak」では「Don't freeze mine. I don't belong here tonight」と歌う部分がぐっとくるけど、皆はどうだろう?
ウィキペディアによると「エルゴプラクシーが世界中で放送された影響で外国からバンドとしてもオファーがあって南米を回った。ヨーロッパではスペインやフランスでライブをした」という話が出てるけど、北米やイギリスは回ってないんだよね。
ストーン・テンプル・パイロッツでさえ、デビュー当時は二番煎じと言ってたたかれた北米地域はやはり「気難しい連中の巣窟」なので、相手にされなかったってことなんだろうか。
でも、MONORALはメロディーや和声やパールジャムのようなザラザラ系でないギターのトーンやアレンジも独特で心地よいし、すごくオリジナリティにあふれていると思う。「Petrol」は彼らの最高傑作だと思う。
これまで聞き逃していた方にはぜひおすすめしたいアルバムです。 -
最近は、新譜をあさる習慣もなくなってしまったので、「隠れた名盤」なのか「隠れていない名盤」なのか、そもそも判断がつかなくなっているのも事実。オッサン化とはそういうことだ。
私が中高生だった昭和時代のような、新譜を探す入り口としてラジオに頼っているような中高生はすでに絶滅しているだろう。
私の場合、中学生以来、新譜あさりのためにFM番組を決まった曜日に聴くのが習慣になっていた。土曜日に学校から帰ると、3時からNHKのFM番組が始まる。それをベッドに寝転がって聴くのである。もちろん土曜日以外でもサウンドストリートとかも聞いていた。
ベッドの上で空中に釣り糸を垂らす(表現がおかしい?)のである。ルアーでは釣れないので、ぶっこみ釣りの手法である。で、ときどき耳から出ている釣り糸がぴくぴく反応し、大物になると、ついにはガバっとベッドから起き上がって、曲名をメモして、日曜日にはレコード店へ走る。そういう今のおっさん、おばさん世代ならだれもがやっていたふるまいを私もしていたものだ。
だがもう今はラジオをまったく聞かなくなって久しい。だから、新しい音楽に触れる機会というのは映画やアニメのOPやEDに登場する音楽になってしまうのだった。
とはいえ、YouTubeとかで手当たり次第に再生して、お気に入りにする場合もある。アンビエント系とか自分には未知の音源は今でも気が向いたらそうやって手に入れている。どういうカテゴリーに入れたらよいのかわからない、お気に入りになってるアルバムもある。たとえばworld's end girlfriendの「LAST WALTZ」とかも好きで聴いている。1920年代の男性歌唱みたいな箇所が出てきたときは、予期せぬ事態で「おおっ」となった。彼らの孤高路線も支持したいところである。
で、本題である。最近ずっと車の中で聴いているのは安藤裕子の「Merry Andrew」だった。
これは映画「巷説百物語」で聴いたエンディングテーマ「星とワルツ」が気に入って、そこからアルバム探しに行った例だった。
アレンジは全編アコースティックで、70年代的な(これは誉め言葉である)丁寧さに満ち溢れている。その穏やかさが好きで何度も聴いているわけだった。
というわけで、未聴の方はぜひ。だいぶ前にリリースされていたアルバムだが、「奇縁によって発見し、ようやく過去に追いつけるような新譜の追いかけ方」になっている昭和世代のかつての音楽好きたちにもオススメしたいアルバムである。